カント哲学と合気道③ - 純粋理性批判 -
こんにちは!
今回もカントの哲学と合気道の組み合わせでお話していきます!
前回はカントの批判哲学を見ていきましたが,今回は純粋理性批判というものを解説していきます.
ただ,純粋理性批判を完全に読み解くのは非常に難しいため,概要についてさらっと解説したいと思います!
さて,まずタイトルにもなっているのですが,そもそも純粋理性批判とは何なんでしょうか.
まず大事なのは,批判の意味を押さえておく必要があります.批判というとみなさんは「相手の良くない部分について糾弾すること」という意味だと思われると思います.しかしここでいう批判とは,「理性の能力の限界について徹底的に吟味すること」を意味します.これは重要なのでしっかり押さえてもらえると今後の話が読みやすくなります.
純粋理性については,人間のできる経験から学んでいない純粋な気持ちで物事を判断することを意味しています.
では純粋理性批判の中心課題とは一体何なのでしょうか.
ここでは例を挙げてみます.あなたと数人が一輪の赤いチューリップの花を見ているとしましょう.この時全員に共通している認識としては文字通り「赤いチューリップ」が咲いているということです.これに対して疑いを持つ人はいないでしょう(これは青いカーネーションだ!とかは思わないですよね).
ではこの「赤いチューリップ」をどうとらえるかとなると人によって変わります.ある人は「綺麗で美しい」と感じるかもしれませんし,ある人は「もうすぐ枯れそうだな」と感じるかもしれません.
全員が共通している認識というのはどうやら一定の法則があるのではないかということがわかります.これを「共有できる領域」と言います.
純粋理性批判は,どのような知識であれば共有できるかということについて考えていきます.
・純粋理性批判の課題
では細かく分けると純粋理性批判はどのような課題があるのでしょうか.カントは次の3つについて議論しました.
1.科学が合理的な根拠を持って共有できる根拠とは何か
:どういう風に共有しているのか
2.なぜ人間の理性は究極の心理を求めた結果底無し沼にはまってしまうのか
:考えれば考えるほど深みにはまって抜け出せなくなってしまう
3.善く生きるとはどういうことか
今回はこの3つの課題の解を出すというところまではいきませんが(私がそこまで読み切れていないので…笑),この3つの課題にどう切り込んでいけば良いのかということについて説明します.
・理論理性と実践理性
カントは人間の理性というものについて考えていました.そして次の2種類に分類できるとしました.
1.理論理性:
認識能力.いわゆる普通の理性のことを指す.
2.実践理性:
いいことを実践しようとする道徳的な意思能力.
この理論理性と実践理性を合わせて『観念論』と言い,カントは観念論について徹底的に考察していきました.
実践理性については前回ご説明しています.
カントは『道徳法則』という人間が従うべき道徳の法則について考えました.ここでいう道徳法則とは「実践理性」のことを指しています.
定言命法:
「〜せよ」と無条件に善い行いを命じるもの.カントはこの考え方が良いとした.
仮言命法:
「もし〜なら…せよ」という条件付きの命令.カントはこの考え方は純粋な善行ではなく良くないとした.
つまり実践理性とは無条件で善い行いをするということを表しています.
では理論理性とは何なんでしょうか.
人間には「理性(悟性)」の他に「感覚」というものも持ち合わせています.感覚とは「ものをみたり聞いたりして素材を外から受け取ること」を意味します.悟性(理性)とは「受け取った素材を整理して解釈する能力」を意味します.
カント以前では,対象物が目の前にあった時,それを見ることによって私たちは認識しているのだと考えられていました.
これを「認識が対象に従う」といいます.
例えば,目の前にチューリップがあった時,チューリップという対照を見ることによって私たちはそれを認識します.
一方カントの場合では,これとは180°違う考え方をしました(コペルニクス的転回).
カントは,感性(いわゆる直感でイメージを空間的・時間的に受け取る力のこと)によってチューリップを見たのち,悟性(理性)を働かせます.そしてこの悟性を働かせる際には自分の悟性の箱(つまり純粋理性)から探していると考えました.この悟性の箱は生まれながらにして人が持っているものです(先天的=ア・プリオリ).
今回の場合,悟性の箱から「赤い」と「チューリップ」が引き出され,『赤いチューリップ』と認識することができる.
これを「対象が認識に従う」といいます.
つまり悟性をもってしてそれが何かがわからなかった場合,対照を認識することができません.
これまでをまとめると,人間が認識できるものは感覚の形式がとらえた素材を悟性が判断したもので,物自体を認識したわけではないということになります.我々が認識しうるのは,物自体としての対象ではなく,感性的直感の対象としての物,現象としての物だけなのです.
さていかがだったでしょうか.今回の内容はかなり難しかったと思います.私もかなり難しかったです笑.
次回は合気道でこの批判哲学や理性の働かせ方というものを応用できないかということについて考えていきたいと思います.次回が本番です!
ではでは.今回はここらへんでお暇いたします.