カント哲学と合気道④ - 合気道の真髄と批判哲学 -
こんにちは!
今回もカントの哲学と合気道の組み合わせでお話していきます!
いよいよ合気道とカント哲学との関連について考えていきたいと思います.
これまではカントの批判哲学について説明してきました.
批判哲学について少し振り返ってみましょう.
・批判哲学の復習
1.経験論
自分の目で見たこと以外は信じないという考え方.
例:自分は宇宙に行ったことがないので,宇宙というのはもしかしたらないかもしれない.
(批判)いやいや,経験していないことなんだからわからないでしょ!!
2.合理論
自分の頭で考えたことしか信じないという考え方
例:自分はどこか別の世界の人間に操られているかもしれない
(批判)いやいや,もしその考え方間違っていたとしたらただの空想でしかないよ!!
カントのいう「批判」とは相手の言うことを否定するということではありません.「理性の能力の限界について徹底的に吟味すること」を意味します.
そして理性とは次の2つのことを指していました.
1.理論理性:
認識能力.いわゆる普通の理性のことを指す.
2.実践理性:
いいことを実践しようとする意思能力.
また人間には「理性(悟性)」の他に「感覚」というものも持ち合わせています.感覚とは「ものをみたり聞いたりして素材を外から受け取ること」を意味します.悟性(理性)とは「受け取った素材を整理して解釈する能力」を意味します.
カント以前では,対象物が目の前にあった時,それを見ることによって私たちは認識しているのだと考えられていました(「認識が対象に従う」).
一方カントの場合では,これとは180°違う考え方をしました(コペルニクス的転回).
カントは,感性(いわゆる直感でイメージを空間的・時間的に受け取る力のこと)によって対象を見たのち悟性(理性)を働かせ,自分の悟性の箱(つまり純粋理性)から探していると考えました.この悟性の箱は生まれながらにして人が持っているものです(「対象が認識に従う」)
・合気道をカント哲学で考察してみる
カントの哲学を学ぶ中で,批判哲学は合気道と相性が良いのではないかと考えました.合気道ではまさに実践理性を追求しているのではないでしょうか.
少なくとも合気道をしているときに,なにか打算的な動機があって技をしていることはありませんよね.合気道は相手を傷つけずに倒す,「気を合いする」ということですから究極的には実践理性の実行と捉えることができます.
ということは,批判哲学の考え方は合気道の哲学にも導入できるのではないかと考えたわけです.
・対象が認識に従う
さて,合気道で理性と悟性を働かせた場合どのような動きになるのかについて考えてみましょう!
私たちは相手と対峙した場合,自分の目で相手を確認しそこに相手がいることを認識します.つまりカントの哲学と照らし合わせてみると,私たちは目で見て相手がいることを認識したと思っています.
しかし,皆さんはこんな体験をしたことはないでしょうか.
実際にはそんなに強い相手ではないが,見た目が強そうだったから身体が強張ってしまい思うように技がかからなかった
さて,こんな体験をしたときに皆さんはどう考えたのでしょうか?
私たちには,個人差はありますがこんな見た目は強い人だという固定概念があります.もし目の前の人が自分が強いと思う見た目をしていた場合,私たちは勝手に「この人は強い」と思い込んでしまいます.
すなわち,直感によって対象を見たのち悟性(理性)を働かせ,自分の悟性の箱(つまり純粋理性)から探しているのです.そしてこの悟性の箱から,相手が強いと感じる時の特徴を引っ張り出し,相手が強いと思い込みます.
ということは,相手に対する認識というのは変えられるということになるのではないでしょうか.実際私も全く同じ技をしているのに,技がかかる時とかからない時があるのを体感しています.かからない時というのは大抵,「うーーん,今回はかからなさそうだな...」とか「どうしてかからないのかなぁ...」などと思い悩んでいる時です.勝手に自分でかからないという認識になってしまっているのでしょう.
私の通う道場では,師範がよく「相手に持たれたときはそれ以外の場所に意識を向けなさい」とおっしゃっています.これは手を持たれたことに対して強く意識しすぎてしまうと技が硬くなってしまうからなのではないかと考えています.
開祖:植芝盛平翁先生のお言葉を拝見していると「意識」をどう捉えるかといったことに多く言及されているように感じます.
多宝仏塔は自己の中に建てるよう.聖地や寺に建てるだけではなく,各位の中に建てることである.その日の来るのを待っている.そして”身変(みかえる)”,すなわちどんな形にも身を変えて衆生を済度する観世音菩薩,景勝如来のようになっていただきたい.と同時に日本が多宝仏塔としてあるべきであろう.
この言葉からも,意識の持ちようによって合気道というのは究極の奥義を手に入れられるかが変わってくるのではないかと思います.
さていかがだったでしょうか.これまでカントの哲学をみてきました.一旦ここでカントの哲学と合気道は締め括ろうと思います.
カントは人の感性に着目して,今日でも共感できる凄まじい哲学を生み出しました.確かに,私たちは一旦こうだ!と思い込んでしまうとなかなか抜け出せなくなってしまいます.カント自信がどう思っていたのかは分かりませんが,思い込みに対する警告というものがあったのかもしれません.
植芝盛平翁先生は「合気道とは愛の現れである」とおっしゃいました.まさに善の道を極めると,愛を気する「合気」につながるのではないか.私はそう思いました.
かなり興味深い考察ができたので,私としては結構満足しています.みなさんはどう感じられたでしょうか?
ぜひ皆さんなりの合気道哲学を極めてもらえればと願っています!
ではでは.今回はここらへんでお暇いたします.